三浦綾子の小説たちより

母性について2

考えてみると、三浦綾子の小説に出てくる女性たちは皆、母性というものを感じさせない。お前に母性を感じ取る能力があるのかと問われると少し困るけれど、とにかくそう思う。

彼女の代表作である「氷点」の主人公陽子の母である夏枝は、確かに母親ではあったけれど小説中の彼女はどちらかというと後悔や嫉妬などの苦しみを中心とした、女性としての性質がクローズアップされているように思う。確かにルリ子を思う夏枝の描写は母親そのものであるように思えるけれど、複雑で強烈な悲しみに包まれたその状況は、母性を考えるには特殊すぎるように思える。

そもそも、著者である彼女自身、子供を産む事の出来る体では無かったし、その事をいたわって夫の三浦光世氏も子供を望まなかった。だから彼女の作品に登場する女性たちの多くがどちらかというと処女性のようなものを残した描かれ方をされているのは仕方のないことではある。

しかし、だからこそ、彼女の作品に登場する女性たちは生き生きとした現実味をもっているように思う。あるいはエミリ・ブロンテの「嵐が丘」に登場するキャサリンのように。そして、その現実味と母性が対立するのでは無いかという想像の中に、今回のテーマがある。

前回の、アンネット・リビエールに関する文章で、日本的な、家庭的な性質に母性の印象を多少とも重ねた事を自分としては後悔している。けれどそのような印象は一般的に存在しているのではないかと思う。つまりは自由な女性という性質を押し殺した先に母性という概念を置いているのではないか、それでよいのだろうかという疑問がある。女性としての生々しさ、あるいは若々しさと決別した所に良い母親像があり、その像から母性を導こうとするプロセスは本当に正しいのだろうか。

男である私の側から考えれば、母性は言葉通り子供が母親について持っているイメージであって、それは子供の側の願望としての母親像と、現実のそれとが相互に作り出すイメージだと思う。けれど、子供の側からの願望は多くの場合自己中心性に満ちている。それを限りなく満たそうとする姿勢から作られるイメージが、母性と一致するのだろうか。

母性というか、何何性という概念はもっと必然的にその人に属している性質のような気がする。そういった性質は、何か特定の行いを行ったり、特別の振る舞いをした場合に獲得されたり、失われたりするようなものでは無いように思う。

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作家について, 徒然, 母性について
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