「海辺のカフカ」(村上春樹)

題名:海辺のカフカ
著者:村上春樹
発行所:(株)新潮社
タイプ:新潮文庫 む 5 24

僕の両親は離婚した。母は姉だけをつれて出ていった。僕は誰からも愛されていない。そう考えて生きてきた主人公は15歳の誕生日に家出をして東京を後にする。一方、猫と話のできる老人のナカタさんは依頼された猫探しを進めていたが、ようやく手がかりを掴んだ時、恐ろしい事件に巻き込まれてゆく。二つの物語は運命に導かれ、一つの場所を目指し動いてゆく。

主人公は父親から受けた「おまえはいつか父親を殺し、母と姉と交わるだろう」という言葉に意識を翻弄されながら物語を進めます。このテーマはギリシア神話のオイディプス王の話と共通したもので、オイディプス王の受けた神託には「姉と交わる」という要素がありませんが、後の「オイディプス王とアンティゴネー」に続く、自らの両目を失明させて野をさまようオイディプス王と、彼を献身的に助ける娘のアンティゴネーとの親愛的な関係から、二人目の母親というイメージの一端を窺うことができ、この作品との共通点を見る事ができます。

オイディプス・コンプレックスは、心理学者フロイトによる汎性欲説の基礎概念から生まれた言葉ですが、これは幼少期の満たされることのない性欲が人の精神的エネルギーの根源であるとする彼の考え方に繋がっています。主体が女性の場合は若干形をかえてエレクトラ・コンプレックスと呼ばれています。この小説の特徴というか、一風変わっている点は、テーマがこのオイディプス・コンプレックスの克服にあるというよりも、その完遂にあるように思われる点です。普通は満たされることのない欲求の存在を認めてこれを克服し、別の有意義な欲求へと昇華させることで人は成長すると考えるのがフロイト派の精神分析における成長の一般的なプロセスですが、この欲求の源泉を積極的に成就させた場合、精神エネルギーはどうなるのだろうかという疑問を持ちながら読む事ができます。

また、作品に現れる二人目の母というイメージもフロイトにより主張されているもので、実母と早い時期に引き離されると特に現われやすいと考えられています。こちらは実母イメージからの転換であるとされていて、絵画「聖アンナと聖母子」(子供と二人の母性的な女性が描かれた、レオナルド・ダビンチの作品)に対するフロイトの考察などでクローズアップされています。

この作品はある種の人々にとっての現実と希望を、メタファーを通して表現するという難事業に挑戦し、それをかなりの完成度で成し遂げています。けれどその作業にあたり、著者の内に働いていたであろう意識のベクトルは、この難事業の完遂であってそのモチーフとしての登場人物たちが抱えている問題の解決には向いていないような印象を受けます。つまり、登場人物たちの悩みや逡巡がファッションやポーズとして感じられてしまいます。このため、主人公が抱える悩みに共感しながら作品を読み進めることでその解決が出来るかもしれないと思って読むと期待はずれの結果になってしまうかもしれません。もちろん、あくまでも僕の個人的な印象ですが。

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